When you pratice, you are doing yoga


今週の勉強会では、本当に坐禅をするのか、坐禅するふりをするのか、ということについて討論しました。

坐禅するときに雑念を抑えるのではなく手放すことができればいいのですが、手放すことが一番難しいと思います。何かをするより何もしない方が難しいです。’Let it go’、ただ座るだけが坐禅の練習だと思います。


’Let it go’できなくても、坐禅をするふりも坐禅です。10分間、30分間、あるいは1時間座って、心に雑念がたくさんあっても、体は座ったままなのです。定められた時間内は雑念を抑え体を動かさないことが目標ですが、手であちらこちら触ったり目をキョロキョロさせても、座っていれば坐禅であり練習になり、悟りを開けると思います。座ることで禅の道に向かって行くと思います。

ヨガの練習も同じだと思います。「アーサナ」を完壁にできなくてもヨガの練習になります。”When you pratice, you are doing yoga”アーサナをできてもできなくても練習は練習です。世界中全てのものがヨガといっても自分自身がマットの上に立たない限り自分に対しての練習にはならず、ヨガをするとは言えません。


ヨガにおいて、アーサナの練習は必ず必要です。アシュタンガヨガ8支則の順番としては「ヤマ」、「ニヤマ」、そして三番目「アーサナ」がきます。「アーサナ」は一番目の練習ではないのですが、ヨガの練習は「アーサナ」から始まる、とSharathji が会議で何回も言われました。「アーサナ」の練習は大事なのです。「Mantra」や「Puja」など様々なヨガの練習方法がありますが、口で言ったり心で思うだけではヨガにはなりません。

「身心合一」。坐禅やヨガにも練習すること以外に近道がありません。アーサナの安定により心も落ち着き、ドリスティ(視線)に落ち着きがないと精神集中もできず体も安定しません。実際にアーサナを安定できなくても経験することがヨガの練習になります。精神集中ができていなくても経験があれば練習になります。これをヨガと言うのです。

道元の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の教えには迷いと悟りは一体であり、迷いのなかに悟りがあり、悟りのなかに迷いがある、とあります。ヨガも練習の中にヨガがあり、ヨガの中に日々の練習があるのです。

『正法眼蔵随聞記』 面山本・二の十四(長円寺本・三の十一) 今週の勉強の部分です。

Published by Xuan Yoga

Ashtanga Yoga Practitioner Online Yoga Class

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